もしも徳川家光が鎖国をしなかったら?開国のリスクと可能性

徳川家光といえば、「鎖国」という言葉とともに語られることが多い人物です。
しかし、もし彼が「閉ざす」のではなく、「開く」道を選んでいたとしたら、私たちの知る江戸時代はまったく異なる風景になっていたかもしれません。

今回は、「家光が鎖国しなかった世界」を仮定しながら、政治・外交・経済・宗教・文化の側面から、もうひとつの日本の可能性を追いかけてみましょう。

1. 鎖国政策とは何だったのか?

まず確認しておきたいのは、家光が実施した「鎖国」が完全な国交断絶ではなかったということです。

ポルトガルとの関係は断絶されましたが、オランダ・中国との交易は長崎の出島に限定されながらも続き、朝鮮や琉球との外交も維持されていました。これは「統制された開国」であり、「完全な閉国」ではありません。

それでも日本人の渡航禁止やキリスト教の厳禁は、外との接触を最小限に抑える政策であったことに変わりはなく、結果的に日本は200年以上の「安定と停滞」を迎えることになります。

2. 開国政策を選んでいたら、どんな未来があったか

では、もしも家光が鎖国せず、積極的に海外と関係を築く政策をとっていたらどうでしょうか?以下の視点からその可能性を探ります。

2-1. 外交の進展と国際的な立場

開国的な姿勢をとれば、ポルトガルやスペインとの関係が続いていた可能性があります。これらの国々はカトリック宣教師を派遣していたため、宗教的な懸念はあったものの、適切な監視や制度設計があれば、布教と貿易を分離し、共存させることも不可能ではなかったでしょう。

日本は東アジアにおいて、早期に「外交の主体」として登場することになります。清国・朝鮮・琉球との外交だけでなく、欧州諸国とも交渉のテーブルにつく存在となり、近代外交の経験値を積み重ねていくことができたでしょう。

2-2. 経済的影響──交易国家としての江戸

開国によって、日本は国際交易国家としての道を進んだ可能性があります。九州や瀬戸内の港町を拠点に、東南アジアとの貿易ルートが発展。特に長崎だけでなく、堺や大阪、下関などの都市も対外貿易の拠点となったでしょう。

これは幕府にとっても経済的な利得となり、将軍権力の安定にもつながります。民間では、商人が海外と直接商取引を行い、商人階級の台頭と都市経済の発展が促進されていたはずです。

3. 宗教政策と思想の多様性

3-1. キリスト教との共存

家光がキリスト教に対して寛容であったなら、信仰の自由を巡る枠組みが早くから整えられていたかもしれません。教義の違いを理由とした弾圧ではなく、政治秩序を損なわない限りにおいての共存体制が模索され、“幕府の公認宗教”としてのキリスト教という形もあり得ました。

3-2. 思想界への刺激

西洋の哲学や自然科学が、蘭学よりも早い段階で流入していた可能性もあります。特に天文学や医学、地理学などの分野で、中世的な世界観が早期に刷新され、江戸知識人たちの思考もより国際的な視野を持っていたかもしれません。

4. 文化・技術の展開と国民意識の変容

4-1. 「和洋折衷」の都市文化

開かれた江戸時代では、ヨーロッパ風の建築や衣装が日本的な生活様式と融合し、独自の「和洋折衷文化」が形成されていたことでしょう。

また、印刷技術・時計・薬学・音楽なども早くから普及し、庶民文化の豊かさがさらに増していたと考えられます。

4-2. ナショナリズムの早期誕生

西洋的な「国家」概念が導入され、江戸後期ではなく、江戸中期から「日本」という国民意識が芽生えていた可能性もあります。

5 . 世界における日本の立ち位置の変化

開国が進んでいた場合、日本は19世紀の「黒船来航」で慌てることはなかったかもしれません。欧米諸国との条約交渉も対等な関係で進めることができ、不平等条約の締結すら回避できた可能性すらあります。

結果として、明治維新という激変を経ずとも、自然なかたちでの近代化が進んでいたかもしれません。

6 . 仮想の未来──比較表で見る可能性

分野 実際の歴史(鎖国) 仮説(開国)
外交 限定的(オランダ・中国など) 多国との関係深化、外交技術の成熟
経済 国内循環型、商人統制 貿易活性化、商業都市の発展
宗教 キリスト教弾圧 宗教の共存と思想の多様化
文化 和風中心、蘭学限定 和洋融合、西洋文化の早期受容
国家意識 幕府中心の身分秩序 市民・国家意識の早期形成

8. 開国していれば植民地化されたのか?その可能性と反論

8-1. 植民地化の可能性を示す要因

17世紀の世界は、「大航海時代」の真っ只中。ヨーロッパ諸国はアジア、アフリカ、南米などを次々に支配下に置いていきました。

  • フィリピンはスペインの植民地(1571年~)
  • インドは東インド会社を通じてイギリスが支配
  • インドネシアではオランダが強い影響力を保持

日本も開国的な政策を続けていた場合、布教を名目にした内政干渉や、通商利権の独占要求などを通じて、いずれは軍事的圧力に屈するリスクがありました。

特に、豊臣政権末期から江戸初期は、国内がまだ安定しきっておらず、中央集権も完成していなかったため、植民地化を防ぐ政治的体力が乏しかったともいえます。

8-2. 反論:日本には独自の防衛力と外交手腕があった

しかし、単純に「開いていたら植民地化された」とは言い切れない事情もあります。

  • 日本には強力な武士階級と軍事組織があった
  • 統治機構や官僚制度が整っていた
  • 幕府は外国勢力と交渉できる能力を持っていた(例:オランダと限定的な通商関係)

実際に、清朝や朝鮮王朝も植民地化はされておらず、外交力・軍事力・地理的条件によって独立を保っていました。

つまり、日本がうまく外交と軍事バランスをとっていれば、植民地化は回避できた可能性も十分にあるのです。

8-3. 中間的な見方:リスクとチャンスの両面

結論として、「開国していれば植民地化していた」という意見は一面的です。むしろ、「外交的に未熟なまま不用意に開国していれば危険だったが、慎重な政策と軍事力があれば独立を維持できた」と見るほうがバランスが取れています。

つまり、鎖国という選択は確かに安全策ではありましたが、長期的には「閉じたことによる弱体化」という別のリスクを伴っていたのです。

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